人の会話方式

人って発達していく中で3段階の会話方式を会得するようです。

①一者的会話
この話し方というのはしゃべり始めの子供などにみられるもので、自分が話したい事をしゃべっており、相手はいるものの、ほとんど相手が意識されていない会話。とにかくしゃべれれば良いような状態。

②二者的会話
①の次に行うようになる会話方式で、①に比べ、ややしゃべっている相手が意識されている会話。しゃべる相手が、ある程度の信頼を有していれば良いという状態。共感性を求める傾向が強い。

三者的会話
②の次で、人が会得する最終的な会話方式。自分と相手、それに加え「目的」が会話の中に登場するようになります。その「目的」の前では、会話している二人が同盟関係のような構図になっており、互いの意見や批判、批評などがうまく受け止めあえる状態。

正常な発達をする人は必ず③まで到達しますが、たまに年の割りに会話方式の発達に遅れのある人がいます。
ただ、そこで「この人は劣っている。」という解釈する人は、人間的にそう考える人が劣っていると個人的には思います。
実は、この会話方式にはもうひとつ法則があるからです。

三者的会話のできる人でも、生活環境の中でストレスを強く受け続けた場合、三者的会話ができなくなってしまいます。
その場合、三者的会話が行えないため、二者的会話に方式をずらして人と会話するようになります。
また、その状態でさらにストレスを受け続けると、一者的会話に後退します。
つまり、ストレスの蓄積状態に応じた会話方式を人は選択する、という法則があるのです。

また、ストレスを受ける事で三者的会話以前の会話方式に後退するからといって、「この人はストレスに弱いからダメ。」とか「二者的会話なんて幼稚な事はすると時間の無駄だ。」なんて思うのはよろしくありません。

二者的会話の代表例をあげてみましょう。

OL1「あのね〜、相談があるの〜。」
OL2「どうしたの?」
OL1「カクカクシカジカな事があってね〜…。」
OL2「そうなの〜?大変ね〜。」
OL1「どうしたら良いかわからなくて…。」
OL2「じゃぁこうしてみたらどう?」
OL1「そう、でもね、そうするとこういうふうになるかもしれないじゃん?」
OL2「そっかぁ。じゃぁこうしてみたら?」
OK1「うんうん、そうよねぇ。でも主人がコウコウでさぁ…。」
OL2「そっかぁ。それはほんとに大変な状態ね。こういう事してみた?」
OL1「それはしてみなかったけど、こうなるんじゃないかと思ってね〜…。」
OL2「どうすれば良いのかしらね?」
OL1「でしょ?困るでしょ〜?」
OL2「旦那さんもこうすれば少しは違うかもしれないのにね〜?」
OL1「そうそう!そうなのよぉ〜。困るわ〜。」

さて、この例は何者的会話でしょうか?
正解は二者的会話です。
OL1は何かしらの問題を抱えているようですね。
それに対してOL2は解決のための提案をしています。
が、常にOL1はそれを否定し続けていますね?
そして、最終的にOL2が共感的会話を始めるとOL1はノリノリになりました。
つまり、共感性を求めているわけですね、OL1は。
みなさん、中学校とか高校のころにこのような会話、たくさんした記憶ありませんか?
問題は結局解決せず、同じ趣旨の会話が続き、きっとOL1はこう言って会話を閉める事でしょう。

「問題は解決してないけど、ありがとう、聞いてくれて♪」

そら解決しませんよ、目の前の事じゃない上、あなたはOL2の提案に対して実行しようという姿勢もより良くしようという姿勢もありませんから。
ただ、OL1も言っているとおり、この二者的会話には実に有意義な効果があるのです。

それは「精神衛生の保全」です。
人に心のうちを話す事で、内在化(心の中に生まれたり、外のものを心の中に存在させる事)された不満などを吐き出し、クリーンナップするわけですね。
OL1が「聞いてくれてありがとう♪」と言っているように、聞いてもらう事が目的なわけです。

mixiのようなサイトや掲示板が流行するのはこのような人の一般法則の表れかもしれません。
実際、鼻からここで解決策を探そうとして日記を書いている人はおそらく極少でしょう。
偶然良い解決策が見つかる可能性もあるでしょうが、基本的にコメントの内容は短く、共感性の高いものばかりのように見受けられます。

不思議な事に、二者的会話をいつも日記などで書きつつも、普段は三者的会話が普通に出来るという事。
これは単純に、三者的会話ができるが、本当は二者的会話をしていたいぐらいストレスがたまっている、という事の表れなんでしょうか。
これについてもう少し深めてもおもしろいかもしれません。

硬い日記になってしまいましたね。
それではこのへんで、アデュー。