防衛機制

みなさん、防衛機制ってご存知でしょうか?
どんな人間でも持っている心の防衛手段の事。
たぶん前にも触れた内容でしょう。

考え事を電車の中、窓から外を眺めながらしていました。
その時ふと気づいたんです。

「俺は怒りを抑制している」と。

何を突然といった感じなんですが、僕、普通の人に比べて苛立ちや怒りを感じないほうなんじゃないかと前々から思ってたんです。

「何をアホな」と思った方ちょっと待ってね。

僕の中には境界線が有ります。
ほんとの苛立ちとただ話を過剰にしてしまっている時と。
いわゆるパーソナリティースタイル理論で言うところの演技スタイルが強い気があるため、小さな事を少し過剰に話している時があって、普段はそういう自分を知っているので抑制してますが、笑い話になるならと思うと、人に迷惑がかからない程度に面白おかしくしてしまいます。
まぁ、誇張するのは自分の声と身振りぐらいなもんなんですけどね。

そういう時って自分の苛立ちをどうにかしたいというより、その場の盛り上がりの方が重要で、あまり自分自身の事は関係ありません。
が、本当に苛々する事に関しては極端です。

区別の仕方としては僕の口調、考え、その後の対応が「極端」であるか否かです。
そこまでする事じゃないでしょ、という感じの時は本気で苛立ってる時です。




今日の考え事の中で、自分の心の雰囲気に着目する瞬間がありました。
同じ考えが何度も浮かび上がってくる。
でも「大した事じゃないさ」「くだらない事だよ」といった言葉が必ず後につく。
不安定でありながらあたかも安定的であるかのように自分を見取ろうとする。

そんな自分を見ていて、ふと過去にも同じような事がちょこちょこあったなと思い、そこに共通するのが苛立ちや怒りだったんです。

「あぁ、俺は苛々を抑圧する傾向にあるんだな。」

誰しも正常な発達をしていれば、この年には抑圧という防衛機制を手に入れてるはず。
その抑圧対象が何かは人によって違うわけで、僕の場合は「怒り」なのかもしれません。

「怒り」のコントロールや抑圧、極端にはその消失がある種の理想。
なぜそうなのかと言うと、それは他人が怒っているのを見て何か嫌悪感のような感覚を持つからなんだと思う。

他人のキレた姿はなぜか自分の中ではひどく滑稽で未熟さの象徴のような感覚がある。
自分がそうはなりたくないと思うから押さえ込むんじゃないかと思う。

抑圧という防衛機制には法則があり、押さえ込んだ感情は消えるのではなく、心の中にたまっていく。
そしてある時その感情がひとたび噴出すと、そこまで強い感情として現れるような事象でなくとも、周りから疑問に思われるほど強い感情として現れる。
これを「抑圧の回帰」という。

苛立ちとしては小さな事なのに、今までため続けた苛々のせいで、ものすごい怒り方になるといったものだ。

人にぶつけりゃずっと楽なんだろうけど、自分の理念にそぐわない。
我慢が身についた事は確かなのかな、とも思うが、それによって生まれたストレスのコントロールが出来なければ意味がない。

まだまだ未熟。
情けない。